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デジタルとアナログ

 デジタルとアナログの比較は、いろいろなところで話題になる。CDがレコードの代わりに発売されたときにも、デジタルのCD派とアナログのレコード派にわかれてあつい議論になる。私もデジタル派として友人とかなりやり合った口だ。デジタルカメラが発売されたときすぐに私は購入した。デジタルビデオが発売されたときにもすぐに買ったし、なんだかデジタル派の代表のような行動をとってきた。
 写真の仲間とは、モノクロプリントとカラープリントとがどちらがいいかとの論争をした同じ相手と、デジカメ論議もながながとやった。いつもデジタル賛成派だった。そして今、アナログ派だった人も、音楽はCDやネットでダウンロードして何事もなかったかのように聞いて、写真はニコンのD200で撮影し、ビデオもテープからAVCHD規格のものをカタログで物色している。

 だからといって、私のいった通りだろうと威張ってみせる気は全くない。私の中にはデジタルよりもアナログを大事にしたいという気持ちが昔からあったし、今でもある。iPhoneの中にもデジタルレコーディングのダイレクトカットの45回転アナログ盤から録音したアンバートンの静かな声が入っている。いまだに面倒なのであまり動きはしないレコードプレーヤも持っている。とへんな混在状態も維持している。

 私は今まで60年生きてきた経験から、あらゆるもの、あらゆる人と分け隔てなく語りかけ、分け隔てなく受け止め、分け隔てなく愛していたいと思いたい。だから賢治が好きだ。キリスト教でいえばアガペーというらしい。それはただ自分に見えるものではなくて、あらゆる見えないもの届かないもののことを気遣い、思いやり、愛するということだろう。

 しかし、まちがいなく我が子が死ぬ事と、遠いところにすんでいる子どもは死んでいく事とは私にとって重さが違う。

 数年前から、すべてのものを平等に愛することを頭のなかで想像してみた。そして自分自身の現実も考えてみた。人と人との関係は、距離の2条に反比例して、距離が遠くなればなるほど薄くなっていくなが現実だ。その距離も、繰り返しのお互いの接触、会話によって、テレビのニュースの宣伝をいつも見たりして、あるいは本を読んだりして、それぞれ人為的に変わっていくものだ。

 遠くイラクで、あるいはアフガンで、アフリカで、ハイチで、チリで、毎日のように目を輝かした子どもたちが次々と死んでいく事に毎日のように涙する事が出来ているだろうか。出来るはずがない。生きていくためにはここからここまでと枠組みを作って生活していかなければならない。家族であったり国であったり、人種であったり、私たちは複雑な枠組みを必死で守るために、知らずに頭をめぐらして毎日パンクせずに生活できている。枠組みを作るときには、人知の及ぶ範囲である閾値を設定しなければならない。その生活するためにみずから設定した閾値もデジタルだ。

 私が尊敬する水俣病を科学的に世界にしらしめた元熊本大学の原田正純さんは、水俣病について3つの層があるといわれている。一つは、行政が認定するかどうかという閾値。もう一つは、医学的・病理学的に考えられた閾値。そして一番重要なのが患者の水俣病というみえない実相があるといわれる。私自身、カネミライス油を若いときに食べて当時はひどい全身の皮膚症状があり最近検診を受けたが、そのときでもわずかな背中の皮膚症状に所見がついたが、糖尿病によるものといわれた。その傷がそうでない事は私が一番知っている。同時にはかった血糖値は100以下であったにも関わらずだ。医学は過去まで遡ってみる事は出来ないし、体のすみずみまで解剖してみる事もできないのだ。体に取り込まれたダイオキシン、ジベンゾフランの検出可能な閾値が本当はあるのかないのかもわからないと思う。

 政治の世界というのはまさにその典型だろう。あるグループが生きるため本当はありもしない閾値を作り出して、国をつくり、身分をつくり、社会的棲み分けをしている。本来政治は、閾値の遥か向こうの見えない理想にたいして謙虚に進む方向を探すはずだったのだろうが、いつのまにか、その政治そのものが目的化され、国をつくり、階級を作って自らのグループを守るために他者を見ないようになる。その意味では、社会主義もその例外ではないだろうと思う。あるグループを大事にすればあるグループが抑圧される事は当たり前だろう。

 問題は政治が目的へ向かうための方便ではなくて、最近の政治家をみているとわかりやすいが、政治が自己目的化してしまう事だと思う。

 社会の実相は、政治の世界が理解できる範囲を遥かに超えており、理想というのは孤立的で独立的でなくて無数の確率の集合のような動き続ける空間世界だという事に謙虚になるところから、与党にしろ野党にしろ、共産主義者にしろ、政治家の真価が問われるのではないだろうか。私が今望むのはそんな政治家だ。

 私はだからといって、みえないアナログの世界をいいと行っている訳ではない。人間はそれでは生きていく事はできないだろう。
 CDがデジタルなりの音質を向上させたように、ビデオがハイビジョンに変わっていっているように、デジタル領域としての政治がもっと社会の実相を理解できる領域に近づいてくれるようになってほしいと思う。どこの政党がいいかという枠組みでなく、そんな政治家が政党はどこでもいいがたくさん生まれて本当に論議できる社会になってほしいと思う。

 宮沢賢治が、法華経や共産主義の理想に触れて社会に働きかけたが、その世界ではかたりきれない宇宙の実相や、理解する事のできない法則の存在を訴えつづけたのはそんなところにあるような気がしてならない。その意味では、賢治のなかでは、生きる方便としての理想の共産主義も法華経も矛盾する事ではなかったように思う。

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