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私とわが叔父と宮沢賢治との不思議なかかわりあい

 母が生まれて今年は100年目。その母に強烈な影響を与えたのが叔父の存在でした。私が大学を辞めて働く決意を訴えた時、「捨て石になる覚悟があるのならがんばりなさい」と励ました母の芯の強さの源もそこにあったのではないかと思います。
 母の生きてきた足跡をたどる上でも、叔父のことを知ることは欠かすことのできないことだとおもいこのメモを記しました。

 私が宮沢賢治の作品の「どんぐりと山猫」というペンネームをはじめて使ったのは、いまから45年ほど前の高校生のときでした。中学校3年の時の国語の教師が、副教材としてこの作品を取り上げ、クラスのなかで私ともう一人の女性とふたりだけが立たされて、言葉のいじめのような感想文を「強要」されたのがものすごく印象に残っていたからです。そのときなんと答えたかはもう忘れました。高校に入って、兄の勧めで受験の通信添削をはじめて、その時答案にニックネームをつけなければいけなくて、印象にのこった不思議な作品の「どんぐりと山猫」と書いて送っていました。成績が返ってくると、冊子に上位の点数順にニックネームが掲載され、「どんぐりと山猫 福岡県」とあるのを見つけては喜んだのはなつかしい思い出です。
 その後は特別宮沢賢治の作品が好きだったというわけではなくて、夏目漱石やロシアやフランスの文学を夢中で読んでいて、そんな作家のひとりにすぎませんでした。
 学生時代に生来の恥ずかしがり屋をなおそうと落語研究会にはいり、部員同士で与太郎についての議論をよくしました。そんなとき、賢治の「デクノボウ」と与太郎が何かダブって見えたこともあります。そして与太郎になろうと憧れて生きてきました。
 その後インターネットが始まり、ログインIDが必要になって、ふたたびこのどんぐりと山猫というID名を使うようになりました。そんな因縁で、名乗る以上は、いくらかは賢治の作品を読んでおかなくてはと、いろいろな作品を読み始めて宮沢賢治を意識し始めたのはつい最近のことです。

 昨年職場を退職して、時間ができましたのでもう一度勉強をしてみたいと、図書館にかよって本を読むことにしました。読んだ賢治に関する本の中で、「春と修羅」について、下中弥三郎という人物が評価したという記述がありました。下中弥三郎という人がどんな人かはその時は思い出せませんでしたが、どこかで聞いた名前だと気がつきました。

 ずいぶん前に、筑波大学の学生で、私の叔父の工藤亨という戦前の教師の活動を卒論のテーマとして研究された方がおられました。いろいろと叔母に遺族として質問をされたということで、その学生さんのメモをいただいたそうです。それを叔母が勉強しなさいと私宛に送ってくれたものが今でも手元にあります。
 現在文教大学で教授をされておられる太郎良さんの研究メモでした。そのメモの中に下中弥三郎という名前があったことをしばらくして思い出しました。下中弥三郎さんは平凡社の社長で、戦前は百科辞典をはじめて出版する一方、教員の労働組合「啓明会」を組織した人です。戦後は戦犯として公職追放されましたが、51年、それがとけて、再び平凡社の社長をやっておられた方です。私も子どもの頃あずき色の平凡社百科事典をよく読んでいました。

 叔父である工藤亨は中学生の時に「少年世界」という雑誌の少年小説に応募して一般作家と同列に掲載され、その後、浄土真宗の大谷光瑞さんが中国の旅順に作った策進学院という日中の青年をあつめた私塾に遊学したという記述でした。そのとき世界史を教えたのが下中弥三郎さんでした。

 その後師範学校の二部を卒業し、絵画や短歌を学び、童話作品もてがけました。つづり方教育の実践として、大分合同新聞紙上で子どもの短歌や作文の論評の仕事もしていました。戦死した弟が声楽で音大をめざしていたこと、妹(母と叔母)たちが二人師範にすすんだことなど、おそらく叔父の影響だろうと思います。そんな中に下中弥三郎の影響を感じます。

 叔父のやったことと、賢治がやったことが、いくつかの共通点があり、賢治のイーハトーヴェに代表されるエスペラントへの思いも、当時エスペラントの普及につとめていた下中弥三郎の影響があるのではないかと、私の想像力は広がってきました。

 1920年当時、下中弥三郎は「啓明会」という教員の労働組合を組織していました。それが教労へと発展していきました。いままでのユニオンとの違いは、「下中弥三郎辞典(平凡社)」によれば、教師の待遇改善を求めることだけでなく、教育の質の向上、子どもの教育に大きな重点を置くところにありました。全国でつづり方教育を普及し、音楽や世界への視野を広めることが、日本の少年たちにいま一番大切なことだというのが趣旨でした。
 教労は共産党の指導のもとに、労働者や農民と結びつき統一戦線を作ることを目指しました。叔父も、教員2名と労働者2名で唯物論研究会を組織し、文化的な活動とともに大分の富士紡績女工のストライキを指導したりしました。東京での集会にも参加し、留守中に学校の教育勅語が紛失し、もと住んでいた家のかまどで発見されるという、冤罪事件にもまきこまれました。さいわい、不在中のことで難はまぎれましたが。
 1930年には相良吉郎さんという同僚の先生と、子どもたちのために「むしろ取り」という童話を作り新聞に発表したりしています。1932年治安維持法で検挙され、母親が倒れ、職を辞して母親の看病をした父親もすぐに急死し、転向を受けいれた失意の叔父は、東京で下中の世話で終戦間際まで教員や編集者の仕事をしていましたが、終戦むかえることもなく1944年妻と同時期に小学校1年生の子供をのこして他界してしまいました。その子は私の父があづかり、我が家で私の兄として今日まで生活してきました。

 もし下中弥三郎さんあるいはその周辺の方と賢治とのあいだに関係がなければ、こんなにも似通った印象を叔父の生き方と賢治との間に感じるはずはないと私は思いました。逆に、下中と賢治がお互いに交流し合っていたと仮定すると、賢治がエスペラントを話したこと。日蓮宗の国柱会という組織に所属していた賢治が、下中さんとは緊密な関係にあった、宗派の違う浄土真宗の大谷光瑞さんの言葉を引用して

   「大谷光瑞云ふ 自ら称して思想家なりといふ
    人たれか思想を有せざるものあらんや 」

と書いていること、また春と修羅二集の冒頭で

   先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが
   近代文明の勃興以来
   或ひは多少ペテンもあったではありませうが
   とにかく巨きな効果を示し
   絶えざる努力と結束で
   獲得しましたその結果
   わたくしは毎日わづか二時間乃至四時間のあかるい授業と
   二時間ぐらゐの軽い実習をもって
   わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居りまして

と書いていることなどがすべてすっきりとせつめいできるように私は思います。

 もしそうだとすると、「ほんとうの百姓になる」と決意し羅須地人協会をつくり、自分の作品の印刷を犠牲にしてまで、労農党の事務所に大切な謄写板を譲った賢治の思いも、私にはいままで語られてきた賢治像とはすこし違ったニュアンスで想像できるのです。

 そして私の下中弥三郎と賢治をめぐるなぞ解きのたびは、びっくりすることに出会いました。それは賢治の「春と修羅」の初版本と、賢治直筆のあて名書きが最近発見されたニュースにネットを検索していて出会ったことです。

 なんとその方が、叔父と童話を一緒に書いたあの相良吉郎さんだったのです。

 わかかりしころ「オッペルと象」という賢治の作品を読んで私が感じた疑問や、いろいろな賢治に対しての私の疑問はすこし落とし所をもらいました。

(いろいろなことを調べるにあたって、つい最近始めた流行のツイッターでめぐりあいました「宮沢賢治の詩の世界」という素晴らしいサイトをつくられている方、下中弥三郎記念財団の方、平凡社の「下中弥三郎辞典」、ならびに、文教大学の太郎良信教授の学生時代のメモなどのお世話になりました。ありがとうございました。)

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