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大人とは? 成人の日に思う

 いまからさかのぼること41年前、私に成人式の招待状がきた。そのとき仲よくしていた友人と話し合ったら、記念品だけはもらいに行こうと、会場の入口で受付を済ませ、記念のアルバム1冊と紅白のまんじゅうだけをいただいて、振袖姿や新調した背広姿を横目に、二人で会場を後にした。今から思えば、成人式に興味がなかったのかというと、そういうわけでなく、なんとなくお役所がやる紋切り型の儀式に若気の至りで反発しての所業だったと思う。

 成人というが、大人になるということはどういうことかなと今日は考えてみた。テレビのワイドショーでは犬の成人?式は1歳だそうだ。もうこれ以上あまり体が大きくならなくて、生殖能力を備えたために成犬とするのだろう。
 人間の場合はそんなわけでもない。一般的には、社会的にある程度適応能力を持つほどに成熟して、社会的な義務を果たし、自分のやったことに対して責任を持つ年齢というところが大方の考え方だろうか。

 しかし、最近の若者たちを見ていて、「大人になる」ということがどういうことなのかわからなくなることがある。生活のために仕事をすることをのぞけば、マンガに読みふけり、テレビとゲームに浸り、その日その日を過ごしていく人たちが多い。もちろんいろいろな人がいることは承知の上だが、そんな「大人?」という層がますます目立ち始めたのは事実だ。そのうえで、いろいろな価値観が乱立して、「大人」の定義をますます難しくすることに輪をかけているような気がする。

 一方、若いころ何かを始めようとするたびに、両親や年配の方々から「もうすこし大人になりなさいよ」とか「まだ青いねえ」なんて言葉をさんざん聞かされてきた。
 たぶん、若さをたてに、理想を訴え続けているときに言われた言葉だろう。この場合の大人とはなんだろうかと最近よく考えるようになった。

 一昨年、「どんな命もひとしく大切だ」という一般論と、「人の命の重さはその人との距離の2乗に反比例する」という現実との矛盾について考えてきた。
 昨年は、それぞれの具体的な人と人との関係は、複雑で、法則的でなく不連続で不確定な感情のあつまりで、個別の人間関係を細かく考えていくほど法則的には判からなくなることを考えてきた。
 しかし、不連続な人と人との関係で、われわれは生きていくためにある閾値(しきいち)を設定して、これからは友人、これからは敵、これからはくだらない人間、これからは尊敬する人と人間関係に便宜的に区切りをつけていかなければ、とても生活できないという現実があるのは事実だ。いくらイラクの戦火に倒れていく罪のないひとびとに悲しみの情を抱いたとしてもそのすべての悲劇に涙していては生活が成り立たない。その一方で、身近な一人の不幸に、何日も涙したりする。

 そんな理念に反した人間の存在をそんなものと考えるのが大人だと考えるのなら、私はそんな大人にはなりたくない。

 そんな閾値の集まりが、法律であったり、政治だと思う。それからすると、法律にしろ政治にしろ、公害の許容値にしろ、あるところで二元的に区切ってしまうのは方便であり、最善の方法でないことを自覚しなければならないとおもう。

 最近の政治家やテレビのワイドショーの戦争報道や北朝鮮報道では、そんな単純な二元論が横行している。そして、方便であるべき政治、法律、常識が、次第にそんなおろかな政治家やワイドショーの放言の中では、それ自体が目的として語られている。

 私にとっては、大人とは、常に理想を抱きながら、現実の最善の処方を具体的に提起実践できる能力をもった人だといまは考えている。常に疑問を抱き、2+3が5とはかぎらないという発想をもつ大人がいまますます必要になっていると思う。
 もし理想を常に抱くことが「青い」ことならば、私は青くても結構だと思う。私にとっては理想とは複雑な人知では到達できない実際に限りなく近づくことだから。

 とはいいつつも、なかなかそんなに理想的にはなれていない自分を今は恥じるばかりではあるが。

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