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父の想い出


南方の戦地から母に送られてきた写真 1941年1月の撮影
 父が生前働いていた会社の後輩にあたる同僚のかたに昨日公園でお会いした。私の知らない在職中の父の思い出話などもなつかしく聞かせていただいた。
 今朝、夏の終戦の特集のインパール作戦に参加した兵士の録画を見た。その番組を見ながらビルマの話を耳にタコができるくらい話していた父のことを思い出していた。

 そして、先日15年ぶりに発見された我が家のアルバムの中に、戦前の父の写真がただ一枚あった。戦地の写真はたくさんあったそうだが、進駐軍がこの北九州にも上陸するということで、すべて燃やしてしまったと聞いていたが、戦地から家族に送られてきたこの写真だけが母のアルバムの中に貼付けてあってこの写真だけが残されたようだ。1941年(昭和16年1月22日)の日付が裏に書かれていて、「着き次第返事お願いする」とも書かれている。父は、中国戦線、ビルマ戦線を転戦しているので、この写真がどこなのかはわからないが、1月にも関わらず薄着なので多分南方で撮影された写真だろう。

 そんなわけで父と戦争について今思い出せることをここに記しておこうと思った。

 戦争の歴史について、今頃になっていろいろな解釈が横行し始めたが、ほとんどが戦争に責任のある高級将校やその遺族が自己を正当化するために、あるいは、現在の自分の利害の上に立って、自分の都合のいいように歴史を書き直そうとしているとしかおもえない。断片的な「証拠」とかいうものを恣意的に組み合わせて、何も知らない若者にまちがった歴史観をおしつけようとする試みのような気がする。

 私は戦後の生まれだから、戦争の体験といっても、私たちの町を走っていた進駐軍のジープであるとか、公園で遊んでいる私たちの上を低空で轟音をたてて通り抜ける双胴のロッキード、そして、時々道でひろったにおいガラスといった、間接的な経験だけだ。それ以外は父や母から伝え聞いた戦時中のくろう話だ。
 学校で習った戦争、自分で本で読んだ戦争、ヒロシマ・ナガサキでみてきた戦争と、私の戦争感はその後のいろいろな機会で学んだり、感動したり、涙を流したりしてきたが、それでもやっぱり私の戦争感は、直接父や母から聞いてきたものが基本になっている。

 父は大正の初期に生まれたので、当時のデモクラシーの明るい雰囲気のなかでのびのびと若い時代を過ごすことが出来た。高等小学校を卒業して、当時の八幡製鉄に幼年工としてヤスリがけから鍛えられ、職人に育て上げられた。製鉄での仕事は、機械の据え付けをしており、戦争が始まったときには、アメリカから輸入された日本のものとは比較にならないほどの大きな製造機械をみて、「日本があんな国に勝つはずがない」と母に語っていたようだ。
 しかし選挙と同じで、通るはずがない候補でも運動を続けているうちに「もしかしたら」と勘違いしていくように、つぎつぎ新聞から伝えられる大本営発表をたれながしでつたえる新聞の戦果報道に「もしかしたら」と言い出したと母がいったことがある。とにもかくにも、父の世代はあまり極端な天皇制の洗礼をこどものころにうけていないようだ。本当の話かどうかはわからないが、出征の時には物陰に隠れていたとか、ささげつつで銃を反対にまわしていたとか、将校を馬から引きづり下ろしただとかそんなへんな「自慢話」が多い。
 父は徴兵されて福岡県の久留米にあった菊部隊に入隊し、輜重兵として中国戦線、ビルマ戦線に参加する訳だが、まだ日本が進めすすめの時期もあってか、大規模な戦闘には出くわすことがなかったそうだ。しかし、外地での日本軍の残虐非道な姿は目に余るものがあったといつも話していた。赤ちゃんを放り上げて銃剣で突き刺すなどの行為もああったと父は語っていた。「日本軍は悪いことをした」というのが戦争を語る時の父の口癖だった。
 父が戦争で一番つらかった仕事は、日本軍は食料などは現地調達主義なので、中国の村々で「調達!」と叫びながら、食料を村人から略奪してくることだったそうだ。恐怖にふるえる村人の姿が、私にはイラク戦争の映像から想像できるような気がする。村人も恐怖を感じているが、「調達」の任務に就いた兵士も本当のところは恐怖の気持ちでいっぱいで、それが残虐な行為に結びついたのかもしれない。
 もう一つの父のつらい経験は、ビルマで車を運転していて、事故で村人をひき殺したことだ。そのことについては何度も何度も聞かされた。それが理由で、父は帰国後は輜重兵出身だから運転の資格が当然あったはずだが、免許も取得せず、他界するまで一度も車を運転することはなかった。

 その後、八幡製鉄の技術者不足のため、終戦を前にして父は帰国することができた。そして、戦況はみるみるうちに日本に不利になり、あの忌まわしいインパール作戦が行われた。父の所属していた菊部隊4000人のうちの3000人が帰らぬ人となった。
 何年かまえインパール作戦に参加して生き延びた方に大分までお話をうかがいに行ったことがある。その方は、あの作戦の死者はほとんどが自国の軍隊「日本軍」に殺されたのと同じだと語っていた。決して口にだしたくないような人として許せない行為も敗走のなかではおこったらしい。
 その方は、その後イギリス軍に敗戦後つかまり、収容所に収容された。そして実弾の入った銃をイギリス軍の将校から手渡されて、密林のなかに残されて敗戦を知らない兵士に敗戦を知らせる任務を託されたときに、うちひしがれたような感情を軍人として覚えたと語っていた。

 私がまだ小学校に上がる前のころに、タンスの引き出し中に銀や銅でできた勲章が3つ無造作に置かれていた。父にそれはなにかと聞くと、父は吐き捨てるように「お前にやる」といった。私もそれを遊びで使ってすぐにどこかになくしてしまった。

 いくら過去の戦争を肯定する教科書ができたり、戦争を正当化する人たちが出てきても、私にとっての戦争の実相は父から伝えられた断片的な事実のなかにこそあるのだ。これは、イデオロギーとか思想とかいう以前の問題のようなきがする。

 

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