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黒崎宿とキリシタン

 私の住んでいるところの近くに国道3号線のバイパス工事がはじまり、昔の筑前六宿のひとつの黒崎宿の本陣(参勤交代で殿様がとまるところ)の跡の発掘調査があった。その付近は、私にとってもゆかりのある場所だ。祖母の実家が代々旅館で、黒崎の古い地図に祖母の旧姓の名前のついた旅館があったと記されているので、祖母の実家はたぶんそこあったのではないかと想像している。本陣の近くの桜屋という旅館はいまはマンションになっているが、かつては坂本竜馬などの勤皇の志士が宿泊したという。
 改築前の我が家の2階の梁は、狭い家には似つかわしくない大きな木材であったが、その母の実家の旅館を解体したときの廃材を使ったと今は亡き母からきいたことがある。

 その発掘調査の結果、土中からキリストと聖母マリアのメダイ(メダル)が発見され、それが福岡県の有形文化財にしていされたそうだ。現在、小倉北区金田の埋蔵文化財で展示中だそうだ。

 江戸時代は、バテレン禁止令が出されて、そんなものを持っていれば大変なことになったであろうが、信仰の証として誰かがひそかに持っていたのかも知れないし、禁止になる前のものであるかもしれない。
 あまり語られることは少ないのだが、初代福岡藩主、黒田長政は1613年にバテレン禁止令を出すまではキリシタンで、父親の葬儀もキリスト教で行ったらしい。

 それに、長崎街道そのものが、最初はバテレン貿易を通じて発展してきたようだ。どうして黒崎という地名がついたのかは諸説あるが、なんとなくどれも説得力がない。隈崎が黒崎に転じてそうなったという話も聞いたことがあるが、なんとなく不自然だ。長崎県の黒崎はキリシタンの町として有名だ。私はもしかしたらこの長崎の黒崎から来た人たちが住み着いてその名前が定着したのかも知れないとかってに想像したりしている。

 考古学という学問になれば、証拠のつみかさねで追求するものだろうが、頭の中で創造をめぐらして、ふるさとの歴史を語るのも私には似合っていて面白いと思う。どちらにしても、証拠として歴史が残したものは真実の数千分の1にも満たない事実だから、考古学ほど当てにならないものはないのではないかと、私は勝手におもっている。

 キリシタンの話題では、宮本武蔵に巌流島の決闘で敗れたと伝えられた佐々木小次郎も、キリシタンであることを理由に抹殺されたのではないかという説を最近のテレビでやっていた。黒田藩がキリスト教を禁止したのが1613年。巌流島の決闘が1612年。藩のちがいはあるにしても時期的にはつじつまが合うではないか。1600年前後の北九州にはかなりのキリシタンが生活していたのかも知れない。

 幕府は、武蔵をかくまっていた細川氏を加藤のお家断絶にともない熊本に移封して、代わりに親藩大名の小笠原氏を小倉に配置した。外様の黒田や、肥前、薩摩の大名にとっては、目の上のたんこぶであるから、かつて前田に置かれていた長崎街道の拠点を黒崎に移し、小笠原の領内を通らずに、黒崎の港から長州(下関)まで船でいくことを選択したようだ。そして、宿場に関番所を設置し、出入りを入り念にチェックするようになったようだ。それが、1625年から1635年くらいのあいだで、それ以後黒崎宿が参勤交代の制度とともに確立したと思う。

 北九州の黒崎祇園山傘の起源が前田祇園のほうにあるのもその辺が理由だろう。黒崎に港には、キリシタンとの関係の深い秋月藩の出先もおかれたという。

 黒崎宿は、このように、幕府のバテレン禁止令や、幕末の勤皇の志士たちの討幕運動などの激動の時代の中で、ひとつの小さな歴史の渦の中心であったことはまちがいないようだ。勤皇の志士たちや五卿落ちのお公家さんたちが、黒崎でなにを話し合い何を思って通過していったのか思うと、ロマンの心をかきたてられる。

 しかし、古き黒崎を伝える人は年々少なくなってしまっているようだ。

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